ゴローズは、まさに一つの「時代」を築いた伝説だと思う。
私が最も敬愛する人物の一人である高橋吾郎氏によって設立されたのが、そのゴローズというシルバーブランドである。これから、そんなゴローズの歴史について書いていくつもりだ。
ゴローズ(goro’s)とは
まず、ゴローズとは何ぞや、という部分から。
先にも書いた通り、ゴローズは高橋吾郎氏(以下、ゴローさん)が設立したブランドだ。アメリカ・サウスダコタ州のラコタ族からインディアンネームを授かったゴローさんが、1972年に自らの名前を冠したブランド、ゴローズ(goro’s)を設立したのである。
以降、ゴローさんの手がけるジュエリーは評判を呼び、80年代後半から90年代前半の渋カジ全盛の時代には、ゴローズは一世を風靡することになる。まさに空前絶後のブームだった。
ゴローズ自体、アイテムの単価は他のブランドと比べても高めだが、それでも90年代前半には製作が間に合わないほどにオーダーが殺到したのである。キムタクなどを始めとした有名人に愛用者が現れ始めたのも、ちょうどこの頃だ。
だがしかし・・・。
残念なことに、今のゴローズは、もはやその当時のゴローズではない。なぜならば、2013年にゴローさんが他界してしまったからだ。ゴローさんが手がけていないゴローズは、私にとっては本当のゴローズではない。
実際に、ファンの間でも、ゴローさん生前のプロダクトは「オールド品」と呼ばれ、ゴローさん没後のプロダクトを「現行品」と呼び、明確に区別がされている。私が好きだったのは、ゴローさんが手がけていた頃のゴローズ 、つまりオールド品だ。
ゴローさんが手がけていない現行品のゴローズは、当初からのファンである私にとっては、もはやゴローズではないのである。だから私は現行品を一切買うこともないし、状態の良いオールド品を見つければ、多少値が張っても躊躇なく購入することも多い。
しかしながら、それはあくまで私の場合、である。
たとえ現行品のゴローズでも、多くの人達からすれば、それがゴローズであることには変わりない。現行品を求めてゴローズ本店に並ぶ人たちも未だに絶えることはない。たとえゴローさんが手がけていなくても、「ゴローズ」というブランドは不滅であり、熱狂的なファンがいるのも事実だ。
ではどのようにしてゴローズは今の地位を築き、伝説的なブランドになっていったのか。それを知るために、ゴローズの歴史を紐解いていきたいと思う。
ゴローズの歴史
1939年
1939年、東京の十条にゴローさんが誕生した。
ゴローさん(高橋吾郎氏)の「吾郎」の由来は、6人兄弟の5男だったからだ。そんなゴローさんの少年時代と言えば、鉄くずを集めてお金に換え、それで材料を買ってきて好きなモノを作る日々だったそうだ。この幼少期のモノづくりの経験こそが、のちにゴローズ立ち上げるときのベースになっていたのではないだろうか。
また、その当時、子供の遊びの定番と言えばインディアンごっこだった。そしてゴローさんは、そのインディアンごっこ遊びを通じて、ネイティブアメリカンの文化に傾倒していくことになる。ゴローズという伝説のブランドは、まさにこの頃の体験が原点となっているのである。
1950年代
ゴローさんが中学生になると、臨海学校で葉山を訪れる機会があった。
そしてその葉山で、駐留アメリカ兵が作っていたレザークラフトに出会うことになる。早速、駐留兵からレザークラフトを習ったところ、あっという間にレザークラフトの虜となった。これがゴローさんの革製品作りの原点だった。
その後もその駐留兵と親交を深め、レザークラフトの腕を磨いた。結果的にその駐留兵が帰国する際、自分が使っていた道具をゴローさんに譲り、それ機にゴローさんは本格的にレザークラフトに励むようになったのである。一時期は、かの有名な上野の「中田商店」に自らが作った商品を持ち込み、店主の中田忠夫氏から直接のオーダーを受けるようなこともあった。そうして、レザークラフトを仕事にしていったのだ。
ついには1956年、駒込にレザークラフトのお店「goro’s」をオープンさせることになる。
1960〜70年代
この頃には、レザークラフトの「goro’s」は青山にあるセントラル青山に工房を構えていた。
その当時からゴローさんは、かのTAKEO KIKUCHIのデザイナーである菊池武夫氏や、これまた有名デザイナーのコシノジュンコ氏とも親交があったようである。ゴローさん、菊池氏、コシノ氏とも、実は1939年生まれの同年代であり、その3名ともがお互いを知り合い、結果的に3名ともが日本を代表するブランドを生み出していったのだから、これは特別な何かを感じずにはいられない。
・・・と、話が脱線してしまったようだから戻そう。
それはそうと、ゴローさんがシルバーアクセサリーを作り始めたのも、ちょうどこの頃だ。アメリカに海を渡り、アリゾナ州のフラッグスタッフでシルバー職人と出会ったのがきっかけで、シルバーアクセスの作り方を習得することになる。
そして、1972年には青山から原宿にお店を移し、ショップ「goro’s」をオープンする。そのときからインディアンジュエリーなども扱うようになった。1976年にはサウスダコタ州で、ラコタ族というインディアンからネーミングセレモニーを受け、ついには「イエローイーグル」というインディアンネームを授かることになる。
インディアンネームを授かるということはインディアンとして認められるということでもあり、ゴローさんは晴れて本物のインディアンとなったのである。もちろん、日本人としては初めてのことだった。また、1979年には日本人としては初めて「サンダンス」の儀式を受ける。
このサンダンスとは、まさに過酷そのもので、とある著書には、サンダンスの儀式がこのように書かれている。
日の出から日の入りまで、太陽に向かって踊る儀式だ。焼け付くような太陽の下、ダンサーたちは飲まず食わずで4日間、1本の木を前にして踊りながら祈り続ける。真夏の、もっとも過酷で神聖な儀式だ。
最終日である4日目の最後は、男性のダンサー全員がピアシングをする。ピアシングとは、チョークチェリーの枝を削った太さ10センチ程のピアスを、両胸に左右一本ずつ通す行ないだ。そのピアスとグラウンドの真ん中に建てられたふたまたの巨大なコットンウッドの木(=聖なる木)をロープでつなぎ、祈りを込めて引っ張る。引っ張ることで身を引きちぎり、自由になるのだ。
出典:「あるがままの自分を生きていく インディアンの教え」著)松木正(大和書房)
これを見ても、いかにサンダンスが痛々しくて過酷な儀式であるかが分かる。ゴローさんはこのような儀式を経て、インディアンとして認められたのだ。いやはや、ゴローさんのバイタリティには、ただただ恐れ入るばかりだ。
1980年代
1980年代は、それまでは大人の街のイメージが強かった原宿が、若者カルチャーに席巻された時代だった。アメカジが盛り返し、そのアメカジブームが、いわゆる「渋カジ」というスタイルを確立していくことにつながった。
渋カジと言えばゴローズ 、ゴローズと言えば渋カジ、というくらいに、渋カジファッションとゴローズの結びつきは強く、渋カジの流行とともに高校生までもがゴローズにやってくるようになっていた。そんな当時のゴローさんと言えば、ハーレダビッドソンなどのバイクをカスタムして愛車にし、愛犬のスノーを乗せて街を走る姿は、原宿の名物にさえなっていた。
また、どんなにお店が忙しくても、店を休んでアメリカに渡り、ラコタ族と生活を共にしてジュエリー作りの技術を磨く時間を設けるなど、ゴローさんのモノづくりに対する向上心には余念がなかった。
1990年代
90年代の初頭には、全盛を極めていた渋カジにバイカーカルチャーが加わり、ハードアメカジスタイルがその時代のファッションの象徴となっていた。ゴローズは、ベルボトムやバンソンなどの有名ブランドと並び、この時代のファッションには切っても切り離せない存在だった。
また、その頃、スタージスラリーの50周年を目指してロサンゼルスからサウスダコタまで45日間の旅に出ていたゴローさんは、バイカーとしてもカリスマ的な存在として認められるようになっていた。ただ、当時はまだ一人でお店を切り盛りしており、そのせいで「万引き」の増加に頭を悩ませるようになったのも、ちょうどこの頃だ。
増える万引きをどうにかしようと考え抜き、そこで考案したのが、客の出入りを自由にするのではなく、コミュニケーションが取れる程度の人数を数名ずつ、順番に入れて接客するスタイルだ。結果、これが現在のゴローズの接客方法のベースにもなったのである。
また、1991年の年末には、客が並ぶ時に座っていたガードレールが冷たいことを気にかけ、9メートルにも渡る「丸太」を信州から運んできて店の前に設置した。この丸太は2002年に撤去されるのだが、それまでその丸太は、原宿の風物詩として多くの人に記憶されていた。
2000〜2010年代
この頃になると、ゴローさんは店には出なくなり、都内にあるアトリエでモノづくりに専念することになっていた。店の方は、家族やスタッフによって存続された。
時代は裏原系ファッション全盛だったが、藤原ヒロシ氏などをはじめとした様々なクリエイターがゴローズのファンだったこともあり、この間も着実にゴローズのフォロワーは増えていく。また、90年代から続く、少人数だけを入店させて接客するスタイルは、現在も変わらず続けられている。
そして2013年11月25日、ゴローさんの74年の生涯は幕を下ろしたのであった。
最後に
以上、ゴローズの歴史を書いてみた。
前述したように、現在のゴローズはゴローさんが手がけているわけではない。当初からのゴローズファンの私のような者にとっては、もはや今のゴローズを買う理由は特別見当たらないのが実際のところである。
だがしかし、それでもゴローズはゴローズだ。
ゴローさんが直接手がけているジュエリーでなくても、ゴローさんの魂はしっかりと継承されているのではないかと思う。というより、そうであって欲しいし、そう思いたい。
そう言えばゴローさんは生前、こんな言葉を残している。
「僕の作ったモノが人の手に渡り、その人が歩む人生を僕も一緒に旅をするんだ。すばらしいことだよね」
この言葉にはゴローさんのモノづくりに対する想いが込められていると感じる。そんなゴローさんの作るゴローズだから私は価値を感じるのであり、だからこそ「現行品」ではなく「オールド品」でないとゴローズとは言えないと私は思ってしまうのだ。
ーユキヒデー
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